メタ認知のメタ認知をやめたい

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私は,メタ認知のメタ認知をやめられない. このように書くと,いかにも自分は複雑な内省を引き受けているのだ,と言いたげで,いささか鼻持ちならない. しかも,そこへさらに「メタ認知のメタ認知,のさらなる再帰」などと付け足したくなるのだから,なお悪い. 思えば昔からこんな性質をもったいやーな子供だった気がする. 物事をいちど純粋に受け取るかわりに,いちいちそれを見ている自分の目つきを見返し,その目つきを見返している自らの態度の嫌らしさまで気にしはじめる.

たとえば私は,何かを主張しようとすると,すぐにその主張の内容そのものよりも,まずその主張をしている自分の構えのほうが気になってしまう. なぜ私はいま,こんなことを言いたくなっているのか. この語りにはどれだけの自己陶酔が混じっているのか. 私はいま本当に何かを考えているのか,それとも「考えている人間」であるという演出をしているだけなのか. しかも厄介なことに,このような疑いを差し挟むことそれ自体が,また別種の自己演出ではないか,という疑いまで,ほとんど同時に発生してしまう. 自分を疑う者である,という立場にすら,いくらでも居心地よく座れてしまう自分の適応力に驚く. そこは,たしかにとても居心地がよく,しかし同時にかなり面倒で,息苦しく,鬱陶しい場所だ.

つまり私は,何かを言うたびに,その言葉の正しさだけでなく,その言葉を発する自分の倫理性までを査定しているようだ. 単に,正しいか誤っているか,ではない. どのような欲望のもとでそれを語っているのか,誰がどのような免責の立場にいるのか,自分だけを安全圏に置いていないか,そういうことが気になってしまうのである. そして,この種の気にしかたは,たいてい生産的ではない. 議論を前に進めるより,議論の足場を一つずつ崩していっている. だから私はしばしば,自分は思考しているというより,思考しようとしている自分の足首ばかりつかんでいるのではないか,という気分になる.

私はたぶん,無邪気に正しさを語ることに対して,かなり強い不信を抱いている. ある立場をとることそれ自体は避けられないにせよ,その立場が自己正当化のニュアンスを帯びはじめると,もはや以前と同じ仕方では断言できない. 善意はしばしば支配欲と接しているし,連帯はしばしば自己満足と接しているし,批判はしばしば自己演出と接している. そして困ったことに,そのことを指摘する態度そのものもまた,すぐに上から目線の嫌らしさを帯びる. 要するに,どこにも安全な場所が,ない.

しかし,ここでさらに面倒なのは,私は相対主義へ逃げ込みたいわけでもない,ということである. すべての立場が汚れているなら,「みーんな嘘つき」とかなんとかヘラヘラうそぶき議論を避けておけばよい. だがそんな意気地なしの態度は,こちらから願い下げだ. 自分の主張に自己演出と作為が混じることを恐れて黙るのは,大変にツツシミブカイが,結局は傷つく可能性のある場から早々に退避しているだけだ.

つまるところ私は,大きなことを言う自分の嫌らしさにも,黙って済ませる自分の臆病さにも,どちらにもあまり納得していない. この納得の悪さが,再帰をやめさせてくれない.

だから結局,私はしばしば「それでもなお」と言うことになる. メタ認知のメタ認知がどれほど進んでも,なお残ってしまうものがある. 自分の言葉が自己陶酔を含んでいると知っても,なお言いたいことがある. 自分の連帯がどこかで自己満足を含んでいると知っても,なお他人に関心を持ちたいと思ってしまう. 自分の批判がどこか演技じみて見えると知っても,なお批判せずにはいられないことがある. この「なお」が消えない以上,私は完全に沈黙するわけにはいかない. というより,沈黙それ自体がまた別の立場表明になってしまう. いずれにせよ,どこかで汚れるしかないのだ,私は. ならばせめて,自分がどのように汚れているかを見失わないまま,醒めたメタリック・イエローの脳みそをフル回転させて,なお考え続けるしかない. 私はたぶん,そのようにしか思考できない.

このことを,美しく言い換えるつもりはあまりない. 自己再帰の徹底,など文字面ではカッコいいリベラル的態度だが,実際に目にするとみっともないことこの上ない. そこにあるのは,思考の断念と,断念の断念.断念の再帰. 何かを言っては引っ込み,引っ込んではまた出てきて,その出入りの仕方そのものに自分で嫌気が差す. 言い淀み,それでもなお言いたいことがあり,でもそれすら言い淀み,その淀みはやがて川となり山をうがち海へ続いていくってワケ. だが,こういうみっともなさを経由しない言葉を,私はどうにも信用できないのだ. 最初から整いすぎている言葉は,たいてい自分が何を踏みつけ踏み越えてそこへ来たのかを隠している. 私は,その隠し方を不誠実だと感じる.

結局のところ,メタ認知のメタ認知をやめられないというのは,自分の正しさを確保したいからではなく,むしろ,正しさがつねにどこか怪しいという感覚から逃げられないということなのだと思う. そして同時に,その怪しさを理由にすべてを無効にはしたくない,という願いでもある. この二つのあいだで往還しているかぎり,私は,何かを言うたびに自分の言葉を疑い,自分を疑うたびになお言葉を残そうとしてしまう. 外から見るとおそろしく滑稽で,優柔不断にみえることだろうな(ゴメンな,周りの友人たちよ). でも,私にとって思考とは,最初からそのようにしか始まらない. のだと,思う.

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