生存報告と鈴木実貴子ズのライブに行ったという自慢

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便りのないのは良い便り,と言う.

すなわち,ブログの更新頻度が低いということは,私の精神状態が安定しているということである.たぶん.
先日,フィンランドから畏友が来日したときにそういうことを言っていたし,私もそれがしっくり来たのである.

ありがたいことに,現所属に変わっておおむね精神的な安寧は得られたので,言葉の外部化をしなくとも日々を乗りこなせてはいる.


昨日,鈴木実貴子ズのちくさ座ワンマンライブに行ってきた.

これまでにも何度か鈴木実貴子ズのライブには行っていたのだけど,なんとなく,そういうことを明け透けに書くのは違うなーと思っていた(し,今も思ってはいる).
しかし最近,客がそういうことをちゃんとプロモーションすることで,愛するバンドの活動継続に貢献できると考え直した.
私にとってより重要なことは,彼女らの新曲を聴き続けられることである.
ので,わざわざライブ行ってきた報告をここに書くことにした.

(これは別のお客さんが上げてる動画.もちろん,生で聴く良さとは比較できないけれども,雰囲気がわかると思う)

あいかわらず最高だった.

才能があるってなんなんやろうな
才能がないってどんなんやろうな
常温の涙 常温の涙
凡人は常温の涙

悲しみや苦労に価値がつくのなら
報われるべきはあんたではない
才能や運は頑張っても無理
でも頑張らないとホント無理

こびりついた夢に殺される感覚
ぬるいお前には絶対わかんねえよ
音楽の美しさなんて絶対
お前には一生わかんねえよ
ファッキンミュージック / 鈴木実貴子ズ

自分の才能は,今も変わらず1万1回目に掘り出されるのを待っている.
でも,アカデミアの生き残り競争を勝ち続けなければ,その才能を掘り続けることすらできない.
最近は良い研究ができているから,少しくらいは手がかかるかと思って出た学会では,賞のひとつももらえない.
そんな私の隣では,忙しくってスライドの準備もできてなかったとかなんとか,ぬるいこと抜かしてた奴らがイカしたトロフィーを貰っている.
友人の名前が受賞者リストには載っていて,でも彼は受賞なんてどうでもよくって会場にはいなくて,私が「受賞してましたよ」なんて連絡を入れたら,私に申し訳無さそうな顔をしながら会場に戻ってきて.

そういうことを思い出しながら聴いていた.


冒頭にでてきた友人と話していたことなのだけれど,私は思い出を記録するために写真を撮るというのがどうも苦手である.

私のようなインターネット老人会・青年部の人間にありがちな気持ち悪さを今から披露するのだが,
思い出の定義には,忘れていく,という性質が不可欠だと思っている.
それも,思い出すきっかけすら朧気に消えていくことが必要だと信じている.

写真を撮っておけば,思い出すきっかけを忘却からまもることができる.
写真の片隅に写る傘立てとか絨毯の色とかから,その時の空気感を体表1センチ周囲に呼び戻すことができる.
でも,どうしてもそれが不自然に感じてしまうのである.

それは思い出の本質を曲げているのでは,と私の情緒的な部分が過剰反応をしてしまう.
思い出の一時性というか,すくなくとも再現可能性とは対極にあるはずの性質を大事にしたい,と私は思うのだ.













とか何とかゴチャゴチャ言っているわりに,やっぱり鈴木実貴子ズと一緒に写真を撮っちゃいました,というオチである.

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