もうやめてくれ,と思いながら鈴木実貴子ズを聴く
Published:
記念すべき第一回目のブログ.
書くなら鈴木実貴子ズについて書かねばなるまい,と常々思っていた.
何はともあれ,まず聴いてほしい.
魂の乗った声が,魂の滲む詩を運んでくる
なんて声だ.
ハスキーな,凛とした,張りつめた…形容詞はいくらでも湧いてくる.
ひとつ言えることは,この声には魂が乗っているということだ.
ボーカルは,バンド名の前半になっている鈴木実貴子.
初めて彼女の声を聞いた時,襟元を掴まれて揺さぶられたような,そんな感覚になった.
この声が運ぶ歌詞が,またどれも聴かせる.
止めなくていい音楽を探している
勝ち負けのない音楽を探している
悔しくもならない音楽を探している
でもそんなの音楽じゃないとも思っている
これさ,ここで言ってる「音楽」ってさ,研究でもあるんだよ.
私も,止めなくてもいい研究を,勝ち負けのない研究を,悔しくもならない研究を探している.
でも同時に,そんなの研究じゃないとも思っている.
あいつと自分を比べてさ
勝手に勝ち負け決めている
安心欲しさに否定して
自分はまだまだマシだって
自己暗示の自信じゃ
終わりが もう 見えてるわ
もうやめてくれ,そんなことは分かってるよ,もうやめてくれ…
そう思っていたら,「うるさいな」と最後に一喝されるのだ.
なんて痛快さだ!
そんなことを思いながら,いつもこの曲を聴く.
タイトルは”音楽やめたい”.
タイトルでも私らを殺しにかかってくる.
ツーピースってのがまた良いんだよな
これは割とその傾向が強いと信じているのだけれど,多くのツーピースバンドは良い音楽を作る.
別に評論家を気取るつもりはないが,そういう気がする.
ボーカルとギターは鈴木実貴子で,ドラムは”ズ”だ.
合わせて鈴木実貴子ズ.
ズの扱いが適当だが,実際,鈴木実貴子のズへの扱いは雑だ.
とはいえ,言わずもがなだが,ズの叩くドラムが,やっぱり鈴木実貴子を鈴木実貴子ズとして完成させている.
鈴木実貴子の人を殺しにかかる声と詩が,ズのドラムで少しだけマイルドになって,でもその実,より殺意を増して届いてくる.
“最小の複数形”というツーピースが浮かべる危うさが,ただただ削ぎきったギリギリさが,鈴木実貴子ズには必要なんじゃないか.
カタルシスがすごい
彼女らの曲は,その声や詩も相まって,少しずつ緊張が高まっていく.
張力が増していく空気感の中,鈴木実貴子ズは最後にそれをぶっ壊して,私たちに最高のカタルシスをくれる.
もともと,私が彼女らを知ったのは,京都α-stationでこの曲が流れたからだ:
ぜひ最後まで聴いてほしい.
ズの暖かくて,でもやっぱり鋭く澄んだドラムが,曲の緊張を増していく.
AメロからBメロにいって,サビに行くのか…と待っていたら,肩透かしを食らって,またAメロが始まる.
私のヤワな心臓じゃ,この緊張感だけでもうダメだ.
この時点で私は鈴木実貴子ズに惚れ込んでしまっていた.
最後の最後でコレだ,
アンダーグラウンドで待ってる
全ては,この一言のための長めのイントロだったんじゃないかと思わせるくらい,ぶっ刺さる,泣ける.
そうだよ,音楽ってこういうことなんだよ.
もういっちょカタルシスがヤベーやつを.
だから
孤独はいつだってここに
悲しみはいつだって腕の中
喜びはいつだって足下で
あなたを見上げている
ココの声に込められた魂は,どれぐらい熱いのだろうか.
最後に
彼女たちは,ブログを書いている.
このブログと同じく,なんだか奥の方にひっそりあるブログだ.
(鈴木実貴子の言葉を借りるなら)”アイドルごっこ”をしている奴らみたいに拡散するわけじゃない,キラキラもしていない,泥みたいな感情がなすりつけられたブログだ.
彼女たちの音楽への才能がなければ,むしろ,ただの不器用な奴らとして解決するのだろうか.
分かんなくなってくる.
そんな感じのことを考えて,鈴木実貴子ズの曲を聴く.
もうやめてくれ,と思いながら.